2013.7.6/2013.8.10
『福辺流!!力のいらない介助術 実技編Ⅰ・Ⅱ』に参加して 参加者:田島博美 1)介助術のポイント *動きの主体は「介助される人」であること。 *介助者は「介助される人」がスムーズに動けるように援助するだけであること。 *“力”を入れると「介助される人」にそのまま伝わる。 →同じ“力”で行う事が大切。 介助者の姿勢ひとつ、手の動きひとつで快にも不快にも感じる。 2)「介助される方」の動きを引き出すために *相手の動きをよく見て、出来る事や動きのパターンを知ること。 *人によって出来る事と出来ない事がある。どうして出来ないのかを深く理解していくこと。 *丁寧な介助(声掛け、持ち方、触れ方、動きの伝え方)でその人の出来る事を最大限に引き出していくようにすること。 3)介助者が心掛けたいこと *相手との「距離感」を大事にする。 →近付き過ぎるとストレスになってしまう。 *情報提供票を鵜呑みにせず、自分の目で確認すること。 *今までの概念を取り除く事。 →介助し過ぎてはいけない(八割やり過ぎ) *機能維持を心掛けて“使う”事を続ける。 4)実技でのポイント *触れ方 ・指の第二関節を当てる感じで行う。 ・相手に触れる部分が少ない方が、より動きを引き出せる。 (指先だけが触れるのはシャープ過ぎてよくない) *立ち上がり(椅子から) 少し手前に座り、足をひく。少し前傾姿勢になりながら、自分の膝と相手の膝を合わせて支える。 *動きのシンクロ 自分と相手の動きをシンクロさせる。相手の動きをうまく利用して体重移動して支える。(自分が動いた分だけ相手も動く) *介助者の姿勢 介助者の姿勢が歪んでいると、相手の姿勢も歪んでしまう。 *重心移動を意識する 重心移動を意識して、座る・立つ等の動きを無理なく安定して相手に伝える。 5)まとめ 福辺先生の介助術は見ていると簡単そうだが、実際に自分がやってみるとなかなかう まく出来ない。 自分も介助される方も双方が楽になれるように、何度も何度も体験して“自分のもの にしていく事が大切だと感じた。 #
by hoshigaoka-kenn
| 2013-10-20 00:00
C-1グランプリ 自例発表まとめ
テーマ・副題 再び輝く!「まだまだ、役に立つ」 発表者・所属 介護福祉士 蕨岡 和子 NPO福祉ネット星が丘 目的 新人教育の一環として移動・入浴介助の所内研修 男性利用者に指導者(モデル)となってもらい実施 最終目的 = 彼に下駄を履かせてあげたい(元気だったころ板前をしていた) 方法 利用者の残存能力をいかす 大きな男性を女性介護者が不安なく介助するには ・椅子からの立位 → トイレまでの誘導(便座へ移動・立ちあがり) 声かけによる誘導がいかに大切か ―― 足の動きが全然違う ・入浴介助 → シャワーチェヤーから浴槽へ → 浴槽から立ち上がりシャワーチェヤーへ 浴槽からの立ち上りが困難 モデル(利用者)が安心と言う職員に介助をしてもらい、数名の新人職員が 介助をしてみる どの方法が不安なく介助できるか質疑応答 倫理的配慮 ・事前に指導者(モデル)となっていただく為承諾を得る ・入浴介助は水着を着用してもらう 結果 ・新人職員の真剣な取り組む姿勢をみて指導者をしてくれた利用者もまじめ に取り組んでくれました ・その後、利用者は顔をあげて挨拶し、表情、声も以前にまして明朗になっています ・下駄はまだまだですが段階を追って最終目的につなげたい 考察 新人職員には反省点、今後の介助の活かし方のレポートを提出してもらう 不参加の職員にもレポートを読み気づいた点をレポートにまとめ提出 指導(モデル)の利用者とは自立支援(身体)入浴介助をとうして知り合う 入浴介助の指導で行かせてもらった時、まだまだ上体、足も上がる事を知る 介護保険に移行してから当ホームを利用される もっと、利用者を輝かせてあげたい、 少しでも以前の利用者に近づけてあげたいと思いがつのった。 #
by hoshigaoka-kenn
| 2013-10-16 21:49
認知症ケアと身体コミュニケーション
座長 西川 勝 演者 砂連尾修 2013.7.7(日)昼食中 報告者 赤澤 右子(50) 介護福祉士 認知症と呼ばれる人とのコミュニケーションにおいて、言語が果たす役割は不安定になっていくことがあります。どんなふうに話しかけたら理解してもらえるのだろうか?という悩みをもちます。しかし、コミュニケーションの回路は言語に限りません。人は生まれた時から、死を迎えるまで徹底して「生きる身体」なのです。身体を介したコミュニケーションの可能性をダンサーと臨床哲学の協働によって共に考えていきます。 人はひとりひとり時間の流れが違っています。高齢者や認知症の人たちはとくに、時計の時間に縛られない感覚を持っています。同じ部屋に居ても目が合わないとか認識されないと一人でいるのと同じなのです。認知症の人とは、毎回出会わないと認識されません。お互いに目があっても認識されないと出会ったことにはなりません。お互いに見る見られることが出会うということには、必要になってきます。私たちは、生きてる間ずっと「生きてる身体」なのです。小さい子供たちと高齢者や認知症の人たちには、非言語コミュニケーションが、重要なキーワードになってきます。身体でコミュニケーションすることは、少なくなってきています。言葉を使うようになると言語のコミュニケーションに頼ろうとします。赤ちゃんは生まれてからお母さんにしがみついて、コミュニケーションをとっている。身体でコミュニケーションをとることを今の私たちは忘れてしまっている。そのことをまだ覚えているのが、小さい子や認知症の人たちなのです。認知症になっても身体のコミュニケーション能力はちゃんと残っている。小さい子達と認知症の人達と一緒にケアすると、とっても上手くいく。まだ、しっかり身体コミュニケーションは残っているから。 ワークショップ 二人一組になり握手をするようにお互いにきつく引っ張り合い最後の最後まで力を抜かないで引っ張り合って、きっぱり別れるということをしました。最初からあまり力を入れないで離れた時よりきつく引っ張りあった時の方が、きっぱり別れた感があり、言葉で表すのはかなり難しい。感覚的なものらしく、きっぱり離れた後に、手の甲をそっと触れてみるとなんだか優しい気持ちになったのを覚えています。次に全員で普通は両手を組んで祈る所を足の裏で地球や大地や自分が祈りたいことを込めて、踏みしめて歩くことをしました。全員が部屋を出て、館内を一周して部屋に帰ってきたときは、全員なにかしら、部屋を出て行った時より、なんだか厳かな落ち着いた気持ちになっていたような気がします。私は、祈りと言うことを聞いて、原爆資料館を見てきたこともあってもう二度とあんな悲惨なことが起きないように、原爆で亡くなった人たちが安らかにいられますようにと願って、一歩一歩足の裏で、祈るように踏みしめて歩きました。言語だけでは、伝えられないコミュニケーションがあること、日ごろの私たちがいかに、言語に頼っていて、身体でのコミュニケーションを忘れてしまっていたかを考えさせられた出来事でした。 #
by hoshigaoka-kenn
| 2013-08-03 00:00
7月5日(金)
報告者 高橋由紀(52) 介護福祉士 長崎原爆死没者追悼平和記念館と長崎原爆資料館の見学 資料館では、ボランテイアの解説員に逐一丁寧な解説をしていただく。目を覆うような悲惨な展示物に言葉も出ない。昨年の広島平和記念資料館の映像が蘇る。「戦争反対」「憲法改悪反対」「原発反対」を強く思う。アメリカが日本に原爆を落とした理由には腹が立つ。なんと自国本位なことか。(多くの開発費や労力をかけて完成させた原爆の威力を調べたかった。戦争が長引いて上陸作戦を行うと多数のアメリカ兵が犠牲になるから、早く日本を降伏させるため。ソ連より戦後優位に立ちたかったという三説がある)「TPP反対!」絶対にアメリカの言いなりになってはいけない。 浦上天主堂まで歩いて移動。近いと聞いて来たのに結構な距離があり、長崎も神戸と同じ坂道の多い地形だと認識する。天主堂内は、静かで荘厳で時代がタイムスリップしたように思えた。 平和記念公園の平和記念像を見る。 この像は、北村西望によって造られた。神の愛と仏の慈悲を象徴し、垂直に挙げた右手は、原爆の脅威を、水平に伸ばした左手は、平和を、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを、立てた足は、救ったいのちを表し、軽く閉じた目は、原爆犠牲者の冥福を祈っている。 私たちが行った時、丁度アメリカ人家族の観光客がいた。世界平和を祈ってくれていたらと願う。 夜、「伊佐山展望台」世界三大夜景ツアーに参加する。長崎の夜景は素晴らしく、ほぼ360度見渡せるもので、天候不良で強風と雨に見舞われ落ち着いて見れなかったのが心残りだ。 第21回日本ホスピス・在宅ケア研究会全国大会in長崎に参加して ワークショップ 「ケアするひとためのスピリチュアルプログラム」 7月6日(土)9:30~11:30 講師 大下大圓氏 このテーマに魅かれて受講した。 ストレスと一口に言うが、その原因(ストレッサー)には物理学的(気温、騒音、痛みなど)化学的(汚染物質、薬物など)生物学的(炎症、細菌やウイルス等)心理的(怒り、不安など)身体的(過重労働、体形など)がある。原因の違いによらず、自律神経系、免疫系、ホルモン系などに作用して同じ反応を起こす。緊張状態を続けることは、正常な人間としての判断が脅かされることになり、対人関係、職場不適応などの現実的な問題となる。 その対処法には、休養、薬、環境調整、心理療法(カウンセリング・瞑想等)がある。 医学的には、「瞑想療法とは、瞑想を活用した心理的精神的な療法」であり、心理社会学的な視点では、「瞑想療法とは、瞑想のもつ多義的な機能を活用して、障害となる心身の改善や人間性、スピリチュアリテイの向上を目指す心理的、精神的アプローチ」である。 宗教的、哲学的な視点では、「瞑想療法とは、自身が生きる意味やスピリチュアリテイに目覚め、自己の帰るべき方向を探し出す営み」である。 「瞑想」の効果には ①能力の開発 ②ストレスの解消 ③人格発達・自己実現 がある。 瞑想は、場所も時間も選ばない。初心者でも静かな落ち着ける環境と時間帯が確保でき、座れる空間があればできる。「心を解放し、手放す」ことが目的なのでリラックスできることが大切である。 実際に瞑想を体験してみた。 ①椅子などに静かに座り目を軽く閉じる ②自分にとって気持ちが楽になる風景をイメージする ③口から大きく長く息を吐く。吐き切ったら鼻から無理なくゆっくりと息を吸う ④吸い込んだ空気を大切にしながら、息を2~3秒止めてからゆっくり吐き出す 「吐く息」と「吸う息」に意識を集中して7回以上繰り返す。少しずつ心が落ち着いてくる ⑤落ち着いたら、普通の呼吸に戻す。ゆったりした感覚になる。 ⑥瞑想に入る ⑦時間になったら、1回だけ大きく深呼吸して瞑想を終える ⑧ゆっくりと背伸びをしたり首をまわして、心身の調和をはかる ⑨椅子などを片付けて、瞑想の終焉を確認する これに音楽を取り入れて行うと、瞑想の導入がしやすくなる。 「五分間瞑想」なのに、実際には25分も瞑想していた。瞑想では「自己を見つめる」ことが大切なのに、心地良くて思わず爆睡してしまった。が、それは「体が睡眠を求めていたため」「そんな瞑想でも良い」と大下氏が言われたので安心し納得した。 「座禅」には精神修行のイメージがあるが、「瞑想」には神秘的なものを感じた。 一日一回、自分を見つめる時間を(それもたったの五分)持つことの意義とそれによってもたらされる心の平安と幸福感は他では得がたいものだと思う。実生活でも試していきたい。 7月6日(土)ランチョンセミナー2「人をお世話するという生き方」 12:00~12:30 講師 池永昌之氏 報告者 高橋由紀(52) 介護福祉士 池永氏は、ホスピスで20年間勤務され、多くの患者さんの死を見届けられた。その経験から「ホスピスの大切な仕事は、人生の中ではネガテイブなものに捉えられる死という出来事の中にポジテイブな意味や価値を患者さんやご家族とともに見つけ出すことだ」と言われている。そして、「死を恐れない社会を作っていくための場所にしていきたい」と。 「あきらめの死」=ネガテイブ⇔「受容の死」=ポジテイブ 「がん」によって人は変わる。これまでの価値観・信念が変わる⇒死にも価値が生まれる 死に直面した親の生き方を子どもに見せることは、子どもに対してできる最後で最高の「いのちの教育」である。 ケアしてケアされる・・・喜んでもらえる、感謝してもらえる、良い気持ちになれる、自分の存在の意味、価値を与えてもらえる⇒ケアしているはずが自分がケアされている。 ケアの本質とは、自己実現のために他者の成長を援助することによってその結果、自身の自己実現を成し遂げる。決してお世話されている人を支配してしまわないように。 池永氏が教えてくださったマザーテレサの言葉「ひとをケアすると言う職業を、仕事として選んだのではなく、生き方として選んだのだと思います」に共感した。 私たちも、ホームを生活の場とされている利用者さんと、家族のように生活を共にして、最後までその方の人生に寄り添っていきたいと思っています。 7月7日(日)市民部会「医療、介護、福祉の中のホスピスマインド」 9:00~11:30 -私たちに何ができるのだろうか?- 報告者 高橋由紀(52) 介護福祉士 市民部会の活動 ・医療・介護における患者中心の視点を持つ ・常に市民感覚を意識し、市民と供にに歩む ・患者の声なき声を集約して、運動論に転化する ↓ ホスピスケアの質の向上に寄与する 長崎では、この活動が盛んであると感じた。全体的に(他のセミナーに参加して)在宅医と病院の連携、ネットワークが強力なものに感じられた。 シンポジストに、ケアマネージャー、遺族の会、と市民部会の会長とさまざまな立場の方の話が聞けた。中でも、がんを宣告された患者さんが、治療を拒否「死ぬんだから、何もしてくれるな」と言われ、食事も摂らず衰弱した話には、参加者から多数の意見が出た。本人の本音は計り知れないが、「この方に何がしてあげられるか」を考えることは、決して無駄ではなかったと思う。 ホームでも、以前「エンデイングノート」や「遺言書」の書き方を考える会を主催した。自分のエンド・オブ・ライフを考えること、死ぬ瞬間も大事だが、それまでの生き方がもっと大事であり、遺言書は死んだ後の希望を明らかにするものである。人生や生活は人には任せられない。 『いつ考えるか?今でしょ!』 グループワークで、放射線科医師、遺族、ホスピスボランテイア、介護職のメンバーで話し合った。 遺族の方の話はとても参考になった。在宅で仕事をしていた夫が発病、奥さんが介護をされた。入退院を繰り返し、ホスピスを勧められる状態になったが、馴染みの病院の病室が生活の場になっていたので(転院を拒み)最後をその部屋で迎えられた。私物をたくさん持ち込んだため、退去するときが大変だったと笑顔で話されたことが印象に残った。ああ、このひとは最後までご主人の世話をやりきった達成感があるのだと感じられた。 ホームでの今の対応や看取りの話もした。ホスピスボランテイアの方の話もリアリテイがあった。 島根で亡くなった方を、自家用車で九州の実家まで送ったというのだ。ご遺体は霊柩車でないと駄目なんじゃ?と思われるが、医師の死亡診断書があれば大丈夫だとか。 <ケアマネさんの心に残った言葉> ターミナルケア・・生きているのに死に向かって動こうとする。死をどう迎えるかではなく、残りの人生をどう生きるかである。 終末期における専門職の役割は、最後まで生き方を支える。本人や家族の思いにそって全力を尽くす 本人や家族が「死」を意識したとき、決めるのは本人や家族!しかし、その決心の過程でどれだけ支えとなり得るのか。 その人らしい最後の生き方を支えるために、情報のあり方、共通認識を持った日々の支援、そして患者や利用者ではなく一人の「ひと」としての視点 家族が後悔を残さない事。後悔は何年経っても消えないし、癒されない。本人も家族も救われない。 一昨年、沖縄でこの大会に初めて参加して同じ熱い思いを持った仲間と出会うことができ、今回長崎にも参加することができてとても幸せです。充実した4日間でした。ありがとうございました。 今回、自分にプラスになったことを実践で伝えていきたいと思います。 #
by hoshigaoka-kenn
| 2013-08-01 00:00
報告者 蕨岡和子(56歳)訪問介護管理者・介護福祉士
2013年7月6日9:30~10:00 1、講演 葬儀のいろいろ 村瀬 法寛氏 葬儀とは 人は 誕生し人生を生きやがて死を必ず迎える 人が亡くなると一族、知人等が一同に会し、亡くなった方を思い出し、敬意 を払いこの世からあの世へと送り出す。 また、肉体とは別れ、火葬され形のない魂となる事を納得するための儀式でもある。 たくさんの宗派があり、宗派によって葬儀の内容は異なるが世界観では思想も異なり価値観も違い表現の方法も様々である。 現代でも時代の流れで考え方や方法も変わってきている。よくあるのが、家族葬―核家族の現代では、たくさんの参列者に送られるのではなくひっ そりと送られるようになってきている。 戒 名―宗派のお寺に没後の名前をつけてもらう。現代では死んでから名前をつけてもらってもあの世に行った時誰なのかわからないだろうと自分の名前を戒名にする人が増えてきている。 2、これからのエンゼルケアのために考えておきたいこと 10:00~11:30 〇エンゼルケアの検討のための3つのキーワード ①説明―死後変化や今後にまつわる情報提供 ②相談―ご家族中心が伝わるよう、希望、言いやすい、気づきやすいコミュ ニケーション作り ③提案―エンゼルメイク以外にも看取りの場面となる様々な提案 ※参考となる取り組み(野の花診療所の「抱きうつし」) 〇私達は「なくなった方のセルフケアの代理」 ①ご遺体は「人」 ②私達は「セルフケアをする存在」、ご遺体は「セルフケアができない状態」 ③セルフケアを「代理」する その人らしく身だしなみを整えるのはその人の社会性を取り戻す行為。 顔は周囲の人の記憶の中に存在し、社会的に共有される部分でその人らしい顔にする行為はご家族の心にもたらすものが大きい。 星が丘ホームも今年に入り、3人の方が亡くなられた。最後のご挨拶にとお顔を拝見させていただいた。お顔を見ていると、それぞれ、その方らしい人生の締めくくりを感じた。 エンゼルメイクは今年で2回聞いたのだが、今年は、野の花診療所の「抱きうつし」の発表に興味があったので参加した。 ※野の花診療所 発案者 長石淳子 抱きうつしは4~5年前から始められた。野の花診療所にあまり流行っていない葬儀社がやってきた。遺体を運ぶストレッチは、動かすとキイキイと音がしてうるさく徳永先生がキャスターに油をさすと遺体のある部屋につく頃、音は止んだ。今度は、シートを見ると、ボロボロ。これではどうも~ そこで、始めて抱きうつしが始まった。 ☆抱きうつしをしたい ・最後にその人を抱きかかえることの意味 幼少の頃、おんぶをしてもらった、抱いてもらったことを思い出す。 ・重さを知る やせてしまったなあ、抱く事で「軽くなったなあ」 ・残されたあたたかさを知る。あるいは亡くなった冷たさ、硬くなっていく身体を知る。なくなった事を実感する。 ・家族の手の元へ返す。 病院、施設から家族の元へ。 ・亡くなった方へみんなの素手が触れることの大切さ。 ゴム手袋をしていて違和感があった、最後の顔のケアまでゴム手袋をしていた。ゴム手袋をしていると何も伝わってこない。 ☆在宅での看取りに取り組んで ・抱きうつしは病院、施設だけではなく、在宅にもあった。 ・なくなった後、急にあわただしくなる家族に「10分だけ手をとめて旅づくろいに時間をください」と声をかけよう。 家族を落ち着かせる為にはいいこと。 ・ある物をかき集めての在宅エンゼルケア。なにもないと工夫は生まれる。 ・復元をどう捉えるか ・顔にかけるハンカチはいるのだろうか 葬儀社のハンカチは真っ白。玄関、お棺に入るときハンカチをかぶせずその方のありのままを見てもらいたい。 野の花診療所ではハンカチの隅に11年間刺繍をしつづけてきた。使ってもらえなくてもそっと亡くなった方の枕元においておくと必ずといっていいほど使ってくれていた。 抱きうつしをすることで亡くなった方の顔を見つめ直す事ができる。 思いが甦ってくる。 先にも書いたが、今年、星が丘ホームも亡くなった方が3人いた。4月の初めに 亡くなったIさんは第2ホームの2階で眠るように亡くなられた。葬儀社が来られ白い布に包まれ葬儀社の方が抱きかかえ、リフトを使い降りられた。 その時ふと思ったのが、親族も含め男性が数人いたので、~みんなで抱いておりませんか~声に出して言えばよかった。「抱きうつし」を聞いて後悔した。 報告者 徳岡 八重子 (61) 施設長 夜はエンドレスのスタッフ会議で、連日互いの講義の感想を述べ合い日々のケァの反省会だった。今回の長崎行きは管理者全員が参加してくれた。(自費で・・)将来は研修会の予算が立てられるように経営努力を考えたいと切に思う。日々、命と向き合う現場では学びあう土壌が無ければ守りきれない。 ターミナル期の方々を抱えるホームとしてはなんとか、スタッフの力量を高め安心して過ごして頂ける土台作りをと呼びかけ、3年前の沖縄大会には15名参加してくれた。まさに大会中にも変化があれば戻る事も想定内の状況であっただけに、「抱きうつし」は全員の心に深く残った。 末期の口腔ガンで最期の闘いをされている九十代の女性が16日に静かに息を引き取られた。4月初旬には往診医からは家族への覚悟を伝えられた。私達も最悪の状態を想定しながらも、どのスタッフが関わっても安心できるよう対処を話し合った。ご家族も毎日口から食べられる物をと「リンゴの絞り汁」を持って来られた。「おいしいよぉ!」と笑顔で飲まれた。口腔内をガンが浸出し注いだ飲み物が顔からあふれ出す状態に近づいたが、それからも毎日の「絞り汁」は最後の日まで続いた。昼食後4時過ぎには自力排便もし、あわただしい夕食時の頃、廻りの喧騒を感じながら静かに息を引き取られた。弁当配達のスタッフが「帰ったよ。」と声を掛けるが返答なく、直ちに駆けつけ、家族・往診医に連絡する。スタッフらが次々に駆けつけてくれ、ひと撫で、ひと撫で清拭し、お気に入りの洋服に着替えた。葬儀社の方がベッドからストレッチャーへの移動をと言われたとき、「皆で玄関まで送らせてください。」と。ご家族と当番のスタッフ非番のスタッフらで「抱きかかえ」、軽さと穏やかなお顔を見つめながら「抱きうつし」をした。「お先に逝って待っててね。」と送りだした。 2013年7月6日(土) 14:00~16:30 映画「いつか読書する日」上映会 あらすじ ~不器用すぎる大人の恋物語~ 報告者 蕨岡和子(56歳)訪問介護管理者・介護福祉士 舞台は(撮影地は長崎だが)日本のどこかの坂の多い町。この町に暮らす、毎朝牛乳配達する中年女性(田中裕子)と、末期癌の妻を自宅で看病する中年男性(岸部一徳)の関係が、色んなエピソードを通して、少しずつ少しずつ紐解かれていく。男も女も同じ繰り返しの中で生きていて、一見、何が楽しいのかサッパリ分からない。しかし次第に、そんな2人の、決然と町に根を張って生きる姿、その表情に、憧れさえ覚えるようになる。些細な生活の小さな事件を映し出していく中で、微かに揺れる彼らの気持ちやその変化が、克明に観客に伝わってくる。2人の運命の糸が再び絡みあう瞬間は、非常に緊張感の高い、低温爆発のような心震えるシーンとなっている。無表情の中に感情を滲ませる主演の2人が実にうまい。牛乳配達の音や朝焼けの色、平々凡々な日常の中でもフと何かを甦られてくれるような瞬間を、「独立少年合唱団」の緒方明監督がとても細やかに丁寧に掬い上げた、好感の持てる大人のメロドラマだ。 あらすじにはないが冒頭に高校生時代の中年女性が映し出される。教師が「大場の作文が賞をとったぞう」内容の初めに「私はこの街が好き。この街には知っている人がたくさんいる。この街からでたくない」 学校の帰り道、いつも立ち寄る本屋。本に目をとうし、フと外を見ると中年女性の母親と男性が楽しそうに自転車で通過していく。高校生の中年男性が中年女性の側に寄る。母親と一緒にいた男性は中年男性の父親。 場面は、早朝の中年女性が牛乳配達をする場面にかわる。急な坂道の多い街。 意を決して登っていく先は中年男性の自宅。牛乳配達の後、スーパーのレジ打ちが彼女の仕事。毎日、自転車で通勤する。彼は、市役所の福祉で働いている。 市電に乗っての通勤。彼女は毎日彼が市電に乗る為、駅にいるのを知っている。彼も、彼女が同じころ自転車で駅を通過していくのを知っていた。でも、二人は気づかない振りをしていた。この映画には、児童虐待も映し出されている。 福祉の面でも児童相談所がでてきます。表に出ない彼らの苦悩と決断。 児童の行く末をYES・NOの用紙で決めてしまうのにはショックだった。 両親のいない彼女を友人の母親が見守ってくれている。友人の母親は認知症の夫を介護していた。彼女もまた友人の母親を支えていた。夫の認知症の役も実にうまかった。徘徊を何度も繰り返し探し出す。友人の母親は「この人ね、昔に向って生きているのよ。なんだかどんどん元気になっていく」「二人とも長生きしてね。いろんなことがわかってくるから、面白いから」。 介護職の私にとってこの場面は現実味がありました。おこがましいが介護されている家族の胸中がわかったような気がした。 彼の妻は末期癌。在宅で介護をしている。中心静脈栄養の点滴のバックを交換したり、清拭をしたり、訪問看護士も登場します。在宅医療が日常生活に溶け込んでいるのが自然に映し出されていました。 点滴のバック交換の指導は1回しただけで岸部一徳さんはOKをだしたと後の両監督のトークショウで話されていた。すごいことらしいです。 妻が亡くなる前に彼女に会いたいと申し出ます。彼が彼女の事を35年間思っていたこと、死んだら、彼と一緒に・・・と言い残して亡くなります。 35年前、彼女の母親が不慮の事故で亡くなったのは母親と彼の父親が不倫をしていて二人一緒に事故でなくなった。そのことが狭い街で二人を引き離してしまった。と、思っていたら、実はそれは誤解で二人が高校生の時、彼女が、何かで彼を笑ったのが原因だった。彼の妻が亡くなってから、二人は、普段と変わらない日々を過ごす。が、いつしか、朝、電車が自転車を追い越す時、二人はお互いの存在を確認する。この場面が絶妙に描かれていました。私は、この場面がお気に入りです。そして、結ばれる。翌朝、彼女は牛乳配達に出かけていた。一人目覚めた彼は、目の前に、35年間買い続けたと思う書籍を発見。彼は35年間の彼女の思いに呆然とした。最後は、虐待を受けていた児童が川で溺れかけ、助けようとした彼が溺れて亡くなってしまう。遺体があがったときの彼の顔は笑っていた。こころ残りがないかのように。彼女の恋が終わった。 彼女の変わらない牛乳配達からの日常が始まる。 何故、この映画?題名と今回のテーマのつながりは? この映画には、二人の35年間の淡い恋と二人を取り巻く人たちの医療・介護・福祉に関わる奥深いものが感じ取られました。 #
by hoshigaoka-kenn
| 2013-07-30 00:00
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